2007年の読書記録*2月



火花―北条民雄の生涯 /高山 文彦★★★★★
ハンセン病を病みながら純文学の道を目指し、「いのちの初夜」その他多数の傑作を世にだしながらも、病ゆえに23歳の若さで夭逝していった北條民雄の人生を描いた伝記モノです。(わたしはこの作家を知らなかったのですが…(^^ゞ
ものすごく読み応えがあったのは、いのちの限りを傾けて作品を世に送り出した凄絶な民雄の、短い人生、「ただ生きている事が尊い」と言う心境になるまで、どんな心の葛藤があったのか余す所なく描かれていると言う事です。
著者は民雄の生に死に揺れる心理を、絶望と虚無の中から這い上がり蘇る心境を、その手紙や日記や友人たちの言葉、そして行動の足跡から丁寧に推理し考察されているのですが、妙に感情的にならずすべてを冷静に捉えた視線で描かれたそれらが、とても鮮やかで力強い説得力がありました。
そして彼を支えたのは、師の深い愛情と同病仲間の心からの支えがあってこそ、と言う事が全編にわたり感動を呼びます。

病気そのものよりも、今ではまったく想像もできないほどの差別と無理解にさらされることでよりいっそう苦しまされたハンセン病。(本書では当時の呼び方そのままに「癩病」と書かれています)
国が長年にわたり、強制隔離・絶滅政策をとり、その病気になった人たちは徹底的に排除されました。
一家に一人この病気を患う人があれば、一家離散の憂き目も珍しくなかったそうで、主人公の民雄も病気が知れるや父親に、戸籍から削除されてしまいます。
民雄に限らず、病人たちが受けた差別や苦難(などという簡単な言葉で表せない)は想像をはるかに超えるものだったはず。ただその中に身を置き諦めた人もいただろうし、泣き暮らしたり恐怖に発狂してしまう人もいただろうし、差別からの開放を目指して闘った人々もいて、それぞれの人生があまりにも過酷で苛烈な苦労・苦しみに満ちていたのです。
(と、差別した当時の人々を遠い所から責めることは簡単だけど、おそらくと言うかほぼ間違いなく、自分がそこにいたら差別する側に回っていたに違いない)

民雄もそうして苦しんだ人の一人ではあったけれど、文学の道を志す彼はあくまで、文学者としての立場から病人たちから一歩離れたところに立ち、常に観察者であろうとしました。
そのため、この北條民雄の生涯を読んでみると、一般のハンセン病患者の苦悩や苦しみ、とは一線を隔す民雄独特の苦しみがあるように見て取れます。

「いのちの初夜」は「文學界」に掲載され絶賛を浴びますが、そこに至るまでのまさに血がにじむような思いは、ひたすら読者を圧倒します。
そしてなによりも、この時代、ハンセン病患者が触ったものに触れるだけで感染する、と言う誤解が平然とまかり通っていたこの時代に、突然見知らぬ民雄から「文学の師となってくれ」と手紙で頼まれ、少しも嫌がることなく引き受け、その後も惜しみないアドバイスと援助を続け、魂が触れ合うような交流のなかで、「いのちの初夜」の出版まで面倒を見た川端康成という人物の大きさに感動しました。
自分自身も「雪国」その他の作品の執筆や出版など、激務のなかで身体をこわしたりしながらも、民雄になにくれとなく温かい支援を送り続けた川端康成の、なんと立派なことか。失礼ながら川端作品は一冊も読んだ事がないのですが、いまから必ずや読もう!!と言う気持ちになりました。
川端は作品が世間の注目を集めると「孤独に、こころを高くしていなさい。文壇小説など読まず、ジャーナリズムとも接触せず、ただトルストイやドストエフスキーやゲエテなどを読みなさい。それが自分にとって一番よい批評となる」というアドバイスを何度もしているのが印象的です。そして常に体をいたわるようにと、手紙に書かれているのも…。
また川端康成が民雄の「間木老人」という作品を初めて世に出し「いのちの初夜」の初出雑誌でもある「文學界」と言う雑誌の歴史がここに描かれています。
ファシズムの台頭する時代(226事件などの起きた時代)徹底的にプロレタリア文学が弾圧され、どんどん発表の場を失い、表現の自由を失ってゆく作家たちが「文学」を守ろうとする努力や姿勢が「文學界」を何度も廃刊の危機から救い、存続させてゆくのですが、彼らの熱い思いに胸を打たれました。
「文學界」が今に至るのは川端康成や小林秀雄らの文学者たちの努力があったからなのですがそのあたりの昭和初期の「文学史」もとても読み応えがありました。最終的には二つ返事で現在の文藝春秋社に引き受けた(編集者もろとも)菊池寛の男っぷりも見事です。
川端康成だけではなく、同病の友達(友達が少なかったようですが)との血のつながりを超えた情愛、生死を共にするものの心のふれあいにも感動させられました。特に光岡良二というひとの「どんな苦しい変化でも、必ずそこに新しい世界がある」と言う言葉も印象的です。
彼らの本当に民雄を思い、支えようとする彼らの気持ちには何度も泣かされました。

人生は暗い。だがたたかう火花が一瞬暗闇をてらすこともあるのだ、という民雄の言葉が胸に残ります。しばし余韻に浸りたい迫力ある一冊でした。



たぶん最後の御挨拶/東野 圭吾★★★★
東野圭吾さん本人による作品解説や、年表(自分史)を含めたエッセイ集。このなかでわたしは何冊読んだろうか?多分三分の二ぐらいだと思うけど、このエッセイを読むと読んでないものを読みたくなるのはモチロンの事、読んだ作品ももう一度片っ端から読みたくなる。 ご自身、自信を持って発表したものが泣かず飛ばずであったり、売れると思ってないものが意外にも売れたりという葛藤が面白い。 映画化された作品に関してもその思い入れが書かれていて興味深い。 ともかく、東野さんのファンなら絶対に楽しめる一冊。 エッセイはこれで終わりにしたいという意味の「最後の御挨拶」というのが、エッセイ好きなわたしはとっても残念ですが、そのパワーを創作作品に向けるという意気込みを支持したい。それに「たぶん」がついているからね…(笑)これからも、ついてゆきますよ!東野さん!



四度目の氷河期/荻原 浩★★★
実はちらほらと、不評も耳にしましたが、わたしは面白く読めました。 主人公は、父親のいないワタルという少年。 母親が遺伝子の研究者であったり、自分の外見が一般的な日本人の友達とはどう見ても違っているのを、「自分の父親はクロマニヨン人だ」と思い込んでしまうワタルの少年期を描く作品です。 突拍子も無い「父親がクロマニヨン人」説・・・。 だけど、こう考える事でしか自分自身を保つ事ができず、この考えを生きる事のよすがとしなければ、片時もいられなかったワタルの寂しさ、孤独がひしひしと伝わり、わたしは胸が熱くなる思いでした。 「友達」と言う言葉への羨望、孤独を埋めてくれたイヌのクロやサチとの時間、母親を大事に思う気持ち、陸上を始めた理由など、ひとつひとつに胸打たれました。 後半の物語がちょっと普通っぽくなってしまったり、終わり方がどうもすっきりしなかったり、ちょっと粗は見えるような気がしますが(何様発言失礼)ワタルの気持ちがこんなにも切なく迫る作品、おぎりんならではの成長物語だと思いました。



朽ちていった命―被曝治療83日間の記録★★★★★
ゆこりんさんの記事に触発されて読みました。
怖かった・・・。
まず、放射能の事故と言う事で「放射能汚染」と同じように思っていたけれど、この事故の被害者は「臨界に達することで放射された中性子線」つまり「チェレンコフの光」を浴びます。
わずか1000分の1グラムのウランが核分裂して、発した中性子線がごく一瞬体を貫いただけ。そしてその結果、いったい人はどうなってしまうのか。 被爆初日から順を追って取材しています。 最初は「日焼け」程度であったからだが、次には水ぶくれになり、だんだんと皮がむけ、むけても新しい細胞が作られないので(遺伝子染色体が破壊されてしまったので二度と細胞分裂しない体になったのです)皮膚の下の組織がむき出し、そしてあらゆる所から体液が染み出しおしまいには一日に10リットルの体液が消失。それを医療チームが必死に補うわけです。まぶたも閉じる事ができなくなるので、角膜が乾かないように軟膏を塗るとか、毎日1時間かけて全身の包帯を取り替えると、その包帯の重さを計って、どれだけの体液が失われたかを知る手立てとするとか。タイトルにあるように「朽ちて」行くしかないのです。生きながら、しかし、一切の細胞が再生しないからだとは・・・想像を絶する内容でした。
最初から助かる見込みの無いこの患者を、チーム一体となってなんとかなんとか治そうと、一縷の望みにしがみつき、患者に対して真剣に医療に当たるの医療チームの姿に頭が下がりました。
そして大内氏のご家族の健気で前向きな態度にも大いに感動させられました。自分だったら取り乱してしまうだろうに、このご家族は静かに受け止めしかも、決して希望を失わないその姿が印象的です。 が、大内さんお前では決して涙を見せない奥さんに対し、大内さんのお父さんが息子の変わり果てた姿に対面して「久、来たぞ」と声をかけて泣いたと言うくだりは胸を締め付けられました。 自分の子どもがつらい目にあっているのを目の当たりにする時の親の心境を思うと・・・。
その医療チームの心の葛藤というか、患者の容態に対して刻々と変化してゆく心境がじっくりと描かれています。「何が患者にとって一番良いのか」と言う事が分からなくなりそうなのです。でも諦めない家族の愛情などを通して、医療に没頭するのですが、患者さんの容態を見ていると自分がこうなったらこの患者さんのように頑張れるかどうか・・・。いや、臨界事故にあった時点で死ぬ事を選びたくなるのじゃないかと思う。つまり、それほどひどい状態なのです。 怖いのはこのひどい状態が放射能を直に浴びた前面だけだったと言う事、背中は以前のままの美しい普通の肌だったと言う事。 人知を超えた恐ろしい核の威力に改めて慄然としたしだい。そして同時に、予想をはるかに超えた長期にわたり生きながらえた、大内さんの、人間の生命力に感動を覚えたしだいです。

本書は、原子力発電を頭から否定するのではなく、原発に賛成でも反対でもない、ただひたすら事故の恐ろしさを語っている本ですが、エネルギーと言う人類に大切なものを供給しているとは言え、結局は「核エネルギー」も「核兵器」と同じ「核」である事に変わりないのです。 数年前、息子が生まれた次の年だったと思うので1986年、チェルノブイリ事故がありました。このとき、広瀬隆氏の「危険な話」がベストセラーになりわたしも読み震えましたが、いつの間にか核の怖さを忘れてしまっています。 エネルギー問題は難しい問題だけど、目をそらさずに考えてゆかなければならないと痛切に思いました。



少年にわが子を殺された親たち/黒沼 克史★★★★★
1999年に発行された本。先日「中学生に薦めたい本」と言うコンセプトのくくりの中にこの本が入っていたので、読むことにした。

確かに情報としては古い。この本が発行された後も少年たちによる残酷な事件は後を絶ちません。でも、少年犯罪の被害者たちの心情に新しいも古いもない。何年たっても癒される事のない苦しみの中でもがくように生きている人々の姿がここにあります。
突然に愛する子どもを失った親御さんたちの慟哭が聞こえるようで、こちらも泣けてきます。本当にむごい事が許されているのです。

1992年、9人の少年に激しい暴行を受けて死亡した田本任(たもとまこと)君の親御さんである田本氏を発端に(言うまでもなく少年犯罪被害者は、田本さんが一番最初ではないのです。それ以前からあったのです)著者は長い時間をかけて丁寧に6つの被害者に接触し取材し、彼らが「少年犯罪被害者の会」を立ち上げるまでを本書にまとめた。
少年法の理不尽さ、謝罪をしない、賠償責任を果たさない、果ての無い民事裁判にかかる労力と莫大な費用(しかし、民事裁判を起こさないと子どもが死んだ時の状況すら知らされないのです)・・・などなど、遺族の苦しみは子どもを亡くしたことだけにとどまらず、ありとあらゆる事に巻き込まれてしまう。はっきり言えば「殺され損」で加害者側は「ごね得」みたいな感じ。全部が全部そうだとは言わないけれど、そういうケースが圧倒的に多いことに愕然とします。
中でもわたしが強烈に印象に残ったのは、ひとりの加害者(13歳。夏休みの初日に近所の子どもをわざと溺れさせた)が2学期にはごく普通に中学に通っている。そこには被害者の姉が通っているのです。被害者の姉は加害者の教室を覗きに行く。すると加害者のクラスメートたちに物を投げられたりするのです。加害者は転居して校区が変わったにもかかわらず、頑なに中学の転校をしない。代わりに姉のほうが中学に行かない不登校になったと言う事。そのひとつの事例をとっても理不尽さを痛感できるのでは。
一貫して彼らが訴えるのは、少年の「更生」は大事な事だ。しかし、今の法は「権利」ばかりを振りかざし本当に大切な「謝罪」「贖罪」と言う事を置き去りにしている。法に守られているように見えても、こんな社会の中で育つ少年たちが幸せには思えない。と。
人を殺してはいけない、悪い事をしたらまず謝って、罪の意識をきちんと持って、それから真っ当な人間になろうと努力する・・・そんな当たり前の意識が、子どもを育てる親からして欠如しているようなのだ。
犯罪被害者当事者の会のホームページがこちらにあります。 本書発行から8年過ぎても少年法はなんら変わることなく、少年判事の被害者の人数と加害者の人数が膨れ上がっているようです。
そして、残念な事に2005年にこの著者の黒川氏が他界。
こう言うルポが好きで何冊か読んできていますが、この本は群をぬいてすばらしいと思う。順を追って迫っていくわかりやすさ、混乱する被害者の気持ちを読者に分かりやすく伝える明瞭な文章、そして何よりも丁寧な取材とジャーナリストとしての使命とポリシーと情熱が伝わるのです。
早すぎる著者の死が残念です。ぜひとも本書の続きを書いて欲しかった。



ある秘密 /フィリップ グランベール ★★★★
ネッ友のbonさんに触発されて読みました。

戦後生まれの著者の自伝的小説だそうです。
生まれつき病弱な主人公「ぼく」が、屋根裏部屋で見つけたイヌのぬいぐるみをきっかけに、両親の秘密をかぎつけ、それを掘り起こしてゆく物語です。
自分に自信の無い少年が、戦時中に両親や、両親の友達のルイーズたちがどんな思いをしてきたのか、少しずつその痕跡を手繰ってゆきます。
戦争が無ければ、また違った人生を送っていたかも知れない両親に思いをはせ、気の毒な運命をたどった兄とその母親を思い、戦争の残酷さと対峙してゆく。

淡々と進む物語に不思議な魅力を感じ、一気に読ませられました。
戦争の後で生まれた主人公はもちろん、戦争中のことを一切知らない。
しかし、両親や周りの人間がどんな思いで生きてきたかと言う事と、真剣に向き合い受け止めようとする。少年のその気持ちは他でもない両親への愛ゆえに。
少年が知った両親の真実、ぬいぐるみの持つ壮絶な過去はあまりにも重いのだけれど、自分の「物語」を知るということが人を「解放」させる事だと身をもって知った少年の成長の物語に、読者も深い感銘を受けるのではないだろうか。

ちなみに物語はそれほど似ていないのだけど、雰囲気と言うか、なんとなくだけど・・・映画の「ソフィーの選択」を思い出しました。
主人公がソフィーの過去を掘り起こすと言う部分で似てるのかな?
この映画も打ちのめされるような結末が忘れられない作品ですね。衝撃度で言えば「ソフィーの選択」のほうが大きいですが。



ふたりの証拠/アゴタ クリストフ★★★★
「悪童日記」の続編です。 ストーリーを少しでも語ることは、「悪童日記」のネタバレになるので避けたい。 「悪童日記」も不気味な物語だったけど、今回も・・・。 しかし、悪童日記に比べると一見平凡な気がするが、でも、ラストに衝撃を受けると言うのは前作と同じ。パンチの効いた物語だ。 世界観が、萩尾望都の世界と共通しているように感じるのはわたしだけか。おもーさまの漫画を読んでるような錯覚に陥ったけど。 早く、最後の「第三の嘘」も読みたい。 とりあえず、今はそれだけ。



生かされて。/イマキュレー・イリバギザ★★★★
去年「ホテル・ルワンダ」を見て衝撃を受けたけれど、この本ではそれ以上の衝撃を受けたと言ってもいいと思う。 この著者のイマキュレーという女性は、ルワンダの大虐殺の3ヶ月間を狭いトイレに6人から8人のスシ詰め状態で過ごして、生き残った数少ないツチ族のひとりなのだ。 たまたま、フツの牧師にかくまわれて、過酷ではあるけれど生き抜くことができ(飲み食いはおろか、排泄も自由に出来ない。無論声を出したり体を動かす事も殆ど出来ないのだ)のちは国連で働き、こう言う本を出すのだけれど、「ホテル・ルワンダ」以上に生々しく恐ろしい虐殺の様子が、ここにありありと描かれている。 ある日を境に突然お隣さんが、仲良しが、親友が自分を殺しにやってくる恐怖。鉈を、オノを手に惨殺にやってくる。 惨殺と言うのは生ぬるい。まさに文字通り切り刻むように殺すのだ。女性はレイプの末に。 「ホテル・ルワンダ」でも、女性はフツに捕まるぐらいなら自殺する事を選ぶと言うシーンがあったけど、ここでも著者がそのように決意するシーンがある。 国連はおろか、よその国は逃げこそすれ、助けには一切手を貸さない。 ラジオでは「ツチを殺せ。ツチが生きていた痕跡をすべて消せ」という放送がある。 フツ同士でさえ、ツチに温情を見せれば即ためらわず殺す。 何百と言う死体が何重にも積み重ねられ、真っ黒な絨毯のようにハエがたかっている。もちろん、死体が腐るにおいは当たりいったいに充満している。 本当にいったい何が人をここまでおぞましい心に駆り立てるのか・・・。

そのルワンダの虐殺が細かに書かれているだけが本書ではない。 想像もつかないような絶望の中で、自分たちの愛する家族の命を奪ったフツへの怒りに燃えるのだけど、信仰をよりどころとしてそれを乗り越えて行く姿が印象的なのです。 何不自由ない暮らしをしているときは、信仰は上滑りしがちなのだと思う。逆境の中でこそ信心は熟成され、真の高みに成長してゆく。皮肉な事だけど、この体験で著者は神の存在をより身近に感じ、そして神の助けを得てこの状況を見事に乗り越えてゆくのだ。 しかし、それは並大抵の事ではない。 フツの人たちが悪いのじゃない、彼らの心に入り込んだ悪魔が悪いのだと、理性では分かっていてもこれほどの体験の後、あっさり許すという気持ちにはなれずに苦しむ。が、結局は「許す」と・・・。そして許すことで前進して行く。自分が救われるためには許すことが肝心なのだと言う事を身をもって示してくれるのだ。 でもツチのみんなが彼女のように思うわけではない。恨む人も、復讐を実行する人もいるだろう。いま、ルワンダはどうなっているのか・・・。 イマキュレーさんが言いたい事は、ルワンダの悲劇はどこの国でも起こりうること、虐殺によって傷ついたのはヒューマニティだ。 ひとりひとりの心に宿る愛こそ、世界を救えるのだ・・・と言う事。 彼女が言う「愛」の重み。 こんな事が二度とないように・・・とは、言葉が軽すぎて言うべき言葉が見当たらないのだ。



悪童日記/アゴタ クリストフ ★★★★
「大きな町」から戦禍を逃れて、「小さな町」のおばあちゃんの家に疎開した双子の兄弟の物語である。 ・・・と、聞くとおばあちゃんの元で孫が愛情いっぱいに受けて、戦争の影におびえながらも、幸せな毎日を過ごし、そして戦争が終わって母親が引き取りに来ておばあちゃんと涙の別れを・・・みたいな、ほのぼの系の物語を想像するかもしれない(しないかも知れませんが)。 それが、全然違うのだ。 どこが違うかと言うと、頭から・・・。 まず、おばあちゃんは巷では夫を毒殺した「魔女」と呼ばれており、ものすごく貧しい暮らしぶりで、不衛生きわまりなく、その上に性格もひねくれている。 子どもたちにきちんと愛情を持って接するとか、教育を与えるとかいうタイプの、こちらの求めるようなおばあちゃんの姿からは著しく逸脱しているのだ。 そんなおばあちゃんの家で、双子たちはたくましくしたたかに成長してゆく。学校に行かずとも、自分たちで勉強したり、自分たちをお互いに鍛えあったりして必要な事をちゃんと身につけて行く。 不思議な事に、この生活の中からおばあちゃんとも信頼関係を築いてゆき、愛情さえ見えてくるのだ。 それらが日記のように、双子の視点で描かれて行く。 日常の些細な出来事を、淡々と語るように書かれているだけなのだけど、なぜか引き込まれて一気に読まされる。 読み終えてみれば、謎が多い。 母親とおばあちゃんの関係がどうしてこんなにこじれているのか。 兄弟の名前も知らされないままだし。 そして、そして、このラストは・・・。 どうしたって続きが読みたくなるではないか。 どうしてこの結末をこの双子が選んだのか。 続編を読めば分かるのだろうか。



底なし沼/新堂 冬樹★★★
新堂さんは、読んだ直後は「お腹いっぱいです。新堂作品はもう読みません。」と思うのだけど、しばらくたってほとぼりが冷めると、またこりもせず求めてしまうのです。 で、やっぱり「お腹いっぱい・・・」になるのだった・・・。 相変わらず登場人物の誰にも好感も共感も持てない! それでも読まされてしまうのだけど・・・。 債権の二重取立てを生業としている蔵王と言う男が主人公。 一旦完済された借金の証書を、金融業者から買取り、その「借用書」を元にして金をゆすり取る。 わたしにはとてもカタギには思えないこの商売、ヤクザの杯を分けてるわけではないので「カタギ」だと言うのだ。カタギと言うイメージの幅広さに驚く。 この男の(返したはずの)借金の取立てのすさまじさにまず、新堂節を見せ付けられる。金を借りるということは、すなわち命を掛ける事、いいや命以上のものをかける覚悟でなければ、金を借りてはいけません。 ただ「死ぬ」ぐらいなら生易しいと言えるのだと肝に誓いながら読む。 蔵王に対抗する勢力として登場するのは、結婚相談所を経営する日野。彼もまた、綺麗な顔をしていながら金の亡者で、結婚を餌に会員から金を搾り取る事だけを考えている人間です。 二人ともプライドだけは天より高いので、衝突したらどちらかが折れるまで戦いが続く。 その戦いに、暴力団や、暴力団を食い物にするグループまで出てきて、いったい誰が最後に残るのか・・・。 まぁ中盤までは、暴力沙汰が多くてもいったい誰が頂点に立つのか知りたくて、先を急がせる面白さがあったのだけど、この日野という男が思ったよりもヘボい存在だわ、暴力団を食い物にする恐れ知らずの鬼集団が、またあっけなく片付けられてしうわで拍子抜けすると言うか。 しかもそれらがすべて、これでもか!という怒涛の暴力沙汰のうちに描かれていて、いい加減辟易してしまった。 新堂さんの本は、ある意味「いましめ」的な意味合いもあるのでは。 絶対に街金(もう、闇金もサラ金も同じように感じます)などではお金を借りるまい、こう言う輩とは絶対に近づきになりますまい。 こんな目にあわずに一生を過ごせられたら、それだけでも「しあわせ」だと思う。怖い怖い。 もう当分新堂さんは遠慮しておきます。 と言いつつまた読んでしまうのは目に見えているのですが。